キュウリンゴ
ネットミームが好きです。ものによる部分もありますが、まあ大抵は好きです。政治色、ヘイト的傾向の強い昨今のインターネットを眺めていると、あれらの無意味な言葉たちが無性に恋しくなってしまいます。無意味、いいですよね。いいですよね、無意味。今インターネットで最も居心地がいいのは、無意味を羅列する空間です。それはニコ動の音MADであったり、Twitterにおける”ネタツイ”と称される虚言癖であったり、とにもかくにも言語の有意味性のしがらみから距離を置いたものが、とても好きです。
無意味を羅列するというユーモアは、ある種昨今の流行りであるように思います。インフルエンサーで言うところのにゃるら、複素数太郎、ダヴィンチ恐山辺りを観察している人なら、馴染みのある文法なんじゃないでしょうか。これの生まれた起源こそ知りはしませんが、こないだなんと名前が付きました。オタクはすぐ名前つけたがりますね。鋼兵が過去にゆっくり解説で「母性型直流回路」とか言って馬鹿さらしてたのを思い出します。そういえばあれも流行りましたね、「無敵の人」。ひろゆきでしたっけ、言ってたの。失うもののない人間は凶悪犯罪に走りかねない。社会に倫理をつなぎとめるだけの価値がなくなってしまえば終わりだという、犯罪心理の造語ですね。
これ、正確にはずっと以前の社会学において全く同様の主張がなされていて、トラヴィス・ハーシの統制理論がそれに当たります。社会的絆という概念を以てして犯罪のメカニズムを説明したこの理論は、つまるところ無敵の人と意味するところは同じです。
結局、腐るほど増えた人類が雁首揃えてりゃ、いずれは似たような答えが出るんですよね。こういう既成概念が朽ちた頃に人はまた新たな言葉でその気付きをおめかしして、これ見よがしにお披露目するわけですが、堂々巡りに思えてきますね。何歩進んで何歩下がってるんでしょうね。分からん。
そうそう、話戻ります。こんな感じの人間のダメなとこが今回も遺憾なく発揮されてしまいまして、とうとう虚言癖でニヒルな彼彼女ら、そして我々に名前が付きました。
最近よく見るこういうタイプのオタクって何て呼ぶんだろ
— レジェンド兄さん (@legend23dayo) 2020年3月12日
形容しがたいよね pic.twitter.com/8dul5H4Hql
このツイートに端を発して、キュウリンゴ系との呼び名がにわかに広まっています。まあ程度は知れているので、広く波及することこそないように思われますが……なんというか、見ていてとても気疲れしたので取り挙げました。
まず前提として、自分はこれに該当します。かつてのTwitterアカウントは晩節こそ赤裸々に、みっともない様をさらしていましたが、それまでは意味を綴ることに付かれた無機質なインターネットオブジェのような心持ちでツイートを重ねていました。
馬鹿と阿呆しか出てこない美少女ゲーム「バカーホ」
— とろゝ (@toroDori) 2019年8月2日
ダーリン、マダニに噛まれてるっちゃ!
— とろゝ (@toroDori) 2019年8月7日
ニンテンドッグスのフリスビー大会でしか成功体験を獲得できない未就学児童
— とろゝ (@toroDori) 2019年8月14日
え、今範馬刃牙になってました?やっだ〜
— とろゝ (@toroDori) 2019年8月21日
ピー!!ピー!!そのツイートは物議を醸しすぎています!!アジテーション!!アジテーション!!粛清!!
— とろゝ (@toroDori) 2019年8月29日
大体こんな感じです。それもこれも、意味が怖かったので……たまさかインターネットで見つけたこのスタイルを、いつからか愛用するようになり、そのぬるま湯のような居心地の良さからいつしかフォロワーとの会話も目に見えて減っていきました。当然です。何を言っているのかわからないから話しかけようがないと言われました。無意味を全うできている証です。
これがカテゴリ化されるまでに至ったのは、現在の義憤と敵意に満ちたインターネットが少なからず影響しているように思われます。そこかしこを飛び交う”主張”に気疲れはしているものの、それに反駁することもまたインターネットの治安を下げることの一因となってしまう状況下において、インターネット伝統のスルースキルが全方位へと発揮されてしまったがゆえに生まれた形のようにも思われます。不得手は語らない、荒らしは触らないことを胸に秘めてきた我々であるからこそ、口数の多い現在のインターネットに対して口を噤んでしまったのではないでしょうか。故にこそ、このような無意味な文字列の氾濫(キュウリンゴ)が生まれてしまったのではないでしょうか。あ、エビデンスもクソもない雑記なので真に受けないでくださいね。所感ですので。
少なくとも、このスタイルのある種担い手とも言えるにゃるらさんは日々虚言を繰り返す中で、一切の諍いや争いのない”Twitter2”を夢想し続けているので、キュウリンゴは我々の気疲れから生まれた逃避行動というのは、一定の理があるんじゃないでしょうか。
まあ、そんなこんなでやっとの思いでの逃避行動にさえこうしてレッテルを貼られたことに、らしくもなく不愉快になってしまったので、書きました。
レッテルの話は以上です。次はユーモアの話です。
嘘です。書くの疲れました。書きたい内容半分しかまとまってませんが、また機会があれば書きます。
キュウリンゴみたいなのも、また既成概念があるんですかね。ニヒリズムと括ってしまうのも、イマイチ収まりが悪いです。なんかいいのあったら教えてください。