鬼滅の刃 最終回を読んで

 売れに売れた。それはもうビビるくらいに。かつて自分が書店員を務めていた頃にはまだそれほど注目されていなかったけれど、そこから連載完結にかけて異様な盛り上がりを見せたこの漫画を、放っておくのはいけないなと思い手に取った。本作を読むにあたって連想されたのは宇野常寛の掲げていた「サヴァイヴ系」の概念だ。巨大な存在に淘汰される、平穏が脅かされる無常観・死生観を念頭に置いたこれらの作品群は、『進撃の巨人』『テラフォーマーズ』『東京喰種』などに代表される、2010年代のポップカルチャーを牽引したような存在ともいえるほどのビッグネームが軒を連ねている。鬼滅の刃をこのフィルターに照らし合わせてみると、第一話で家族が惨殺された上に妹が鬼へと変貌してしまったことや、序盤の選抜試験において幼子が無残にも喰い荒らされている様からも、十分にそのジャンルに該当すると言えるだろう。それから成長を重ね、鬼となった妹や仲間となった同じく木っ端剣士の我妻善逸、嘴平伊之助(それらをまとめてかまぼこ隊と称される)とともに死闘を繰り広げる主人公、竈門炭治郎の成長譚としての物語が展開される。その戦闘・成長の延長線上として味方サイドには九人の柱、敵方には上弦・下弦の鬼(各六体)を置くことでこの物語は成り立っており、メインキャラクターと呼べるのは全体でも二十人ほどと少数からなっている。敵方の頭領である鬼舞辻無惨+上弦の鬼 vs 柱+かまぼこ隊+サポート的な端役2人を終結させての総決戦は、展開の速さに対してキャラクターの掘り下げが間に合っておらず、異様な頻度で過去編が挿入される大変読みにくいものとなっていた。そのように、終盤にかけて妙に急ぎ足に見られた本作は、人気絶頂のうちにその幕を閉じた。何故絶頂期にあってこうも展開を急いだのか疑問は尽きないが、それに輪をかけて鼻につく疑問が先日掲載された最終話付近にて噴出したのでこうして筆を執っている。

 

 上記の前提の通り、鬼滅の刃では無常観・死生観にまつわる場面が多々ある。柱の面々は大抵の場合においてネガティブ、不条理な過去を抱えていて、それをバネに鬼へと立ち向かっていることが多い。鬼舞辻無惨との最終決戦では、柱やかまぼこ隊のような実力を持たないモブキャラが敵の攻撃を阻む肉の壁として活用されるなど、とても軽率に人が死ぬ。巨人、ゴキブリ、喰種のように、鬼が人を凌辱する。そしてそういった逆境を乗り越えることこそにサヴァイヴ系のカタルシスは存在するのだが、鬼滅の刃は最終盤において、この特徴を自ら棄却したように思う。

 

 そう思う根拠が二つある。まず第一に、このツイートで記述されているシーン。

 

 

 全ての戦いに決着がついたあと、生き残った面々でわいのわいのと後日譚を繰り広げるのだが、そこでのワンシーンだ。書いてあることの通り、これまで鬼舞辻無惨を筆頭とする鬼と渡り合ってきた戦友達に唾を吐きかけるような善逸の発言が目立つ。マジで善から逸していてビビる。倫理が吹き飛んでいる。このセリフを受けて、めちゃくちゃに花をばら撒く伊之助もヤバい。中卒DQNの墓参りでも見れない光景だ。そういう社会規範からの逸脱もさることながら、この行為と発言がこれまでの作品の理念そのものを損なっていることにも引っかかりを覚える。お館様なんか、鬼殺隊全員の経歴と名前を記憶していて、それぞれを慮っているという描写までされていたのに、産屋敷亡き後は実力主義のスパルタ集団へと改変されてしまったのだろうか。これまで死を尊んでいた作品で、急に手のひらを返されたことに、とても大きな違和感を覚えた。

 

 第二に、先ほどと論旨は全く同じものになるのだが、この後日譚の後にはpixiv二次創作もびっくりの現代転生学パロ同人(※キャラ崩壊、地雷CP注意!の前書きがありありと浮かぶ)がスタートする。インターネットでも賛否両論呼んでいるこのエンディング、個人的にはナシ寄りのナシだ。まずもって、エピローグを作品世界と地続きの場所で描き切らなかったこと。尊ばれていた死が全ておざなりに扱われ、結局は人気キャラのコスプレ見本市で幕を閉じたこと。従来の文脈を蹂躙した挙句の到達点がこれなのかと思うと、とても白けてしまった。

 

 自分はフィクションにおいて、こういう筋が通らない(ブレが見られる)ことや、作者の存在が透けて見えるような構成(この作品は結局のところ架空世界に過ぎないのだという諦観)がとても苦手だ。前述の『進撃の巨人』においても、21巻の佳境(超大型巨人・鎧の巨人と対峙し、因縁にケリをつける)にて獣の巨人が投擲した岩により、主人公サイドである調査兵団のキャラクターはほとんど戦死するのだが、その際に生き永らえたのが数名のメインキャラクターを置いて他にいないという事実にひどく白けてしまい、自分はそこで読むのを断念してしまった。彼らは作品の都合により生き残るべくして生き残った少数精鋭なのであり、それに際して不要なキャラクターは作者により間引かれたのだ。進撃の巨人はあの時点において、人間が強大な存在へと立ち向かうサヴァイヴ系から、少数の重要人物が世界の命運を左右するセカイ系への転身を果たしたのであり、その「作者都合」にひどく落胆したのを覚えている。

 

 チェーホフの銃という概念がある。これは作劇において不要のファクターは配置してはならない(発砲しない銃ならば登場させてはならない)というフィクションにおけるひとつのルールあるいは目安であり、無論ミステリーにおけるヴァン・ダインの二十則ノックスの十戒のように、必ずしも順守されていなければならないものではないのだが、フィクションの合理性を担保する一種のテクニックとして活用されている。

 

 自分はこの理論に対して少々思うところがあり、やや反感を覚えている。それというのも、このチェーホフの銃を徹底した結果生まれるのは結局、作者都合の透けて見える作品世界の弱体化なのではないかという懸念である。

 

 アニメ『シュタインズ・ゲート』は、その最たるものとして挙げられるだろう。携帯機のメール機能に限定されてはいるものの、過去の自分にメールを送れるものとして、タイムマシン技術を確立させた主人公と、その周辺人物の巻き起こす有名なタイムリープサスペンス作品である本作は、その見事なまでの伏線回収の手腕に、非常に話題となった。2クールあるうちの前半での日常パートが非常に長く、退屈なきらいはあるのだが、後半の息をつかせぬ怒涛の伏線回収はすさまじく、何から何まで意味と必然性が付与されていく様は爽快ですらある。ところがその最中において、主人公が居を構えている物件の階下で営業している家電量販店(?)に、ミスターブラウンというキャラクターがいるのだが、その人物が裏で暗躍する秘密組織の構成員であったという展開がある。それまでミスターブラウンは何気ない日常の一風景として、主人公たちの日常生活に紛れ込んでいたのだが、ここに来て重要な意味が発生するわけだ。自分はその際にひどくしらけたことを、よく覚えている。これは意図としては、敵方の重要人物がこれまでのストーリーの中に潜んでいたという驚き、意外性の獲得を目的として組まれたプロットなのだと思われるが、この時点で既に作中では、渋滞を起こしかねないほどの人物相関が発生しており、事ここに至ってその辺のおっさんに悪役面されても、何だか既存キャラの枠組みに無理に役割を押し付けているようで、意外性の獲得に躍起になっている作り手側の存在が感じられてならない。伏線回収という言葉はそのまま、伏されていた線を回収するという意味だが、ここでアウトソーシングの形を取らずに、無理に既存キャラクターに役割を担わせ続ける過剰積載のきらいが、自分は苦手なのだ。

 

 その線で言えば、こないだ配信されたFGOのメインストーリー第2部5章後半『星間都市山脈オリュンポス』でも同じように感じた部分があった。第2部のラスボスとして描かれている異星の神がとうとう降臨し、ビジュアルが公開されたわけだが、その外見がオルガマリー・アニムスフィアのそれと酷似している、というものだ。このオルガマリーというキャラ、何かにつけてはフォーカスされるのだが、作中ではプロローグの段階で死亡している。序盤のカタルシスを生むために配置された捨て駒のようなキャラクターを、しばしば思い返し傷心に浸るような形で再登場させているが、果たして必要なのだろうか。ソシャゲという水物コンテンツで、最初期に登場した端役にこれほどフォーカスを当て続けるのは如何なものなのだろうか。だとか、なんとか、色々考えた。

 

 鬼滅の刃の話からは大きく逸れたが、つまるところフィクションには一貫性の徹底と、作為性の排除を求めてやまないという話だ。

 

 

 

 

(追伸)読み返してみると、見事にまあボロクソに貶していたので多少弁明すると、童磨と胡蝶しのぶのバトルは個人的な作中のベストバウトで、めちゃくちゃに洒落が利いていてよかったです。戦闘に際して矮躯を軽んじられたしのぶが、体重37キロ分に及ぶ毒を自身諸共喰らわせて童磨を道連れにしたところは、BLEACHの涅マユリ vs ザエルアポロ・グランツを彷彿とさせました。やはり毒使いの戦いは良い……。