針鼠のインナーカラーは桃色

 秋田旅行のレポートは一旦お休みしまして、今から載せるのは夜を明かしてからの午前9時半に書かれた眠気混じりの雑記です。この頃は精神衛生も比較的良好で、希死念慮はほとんど含まれていません。ただ、茫洋たるインターネットを眺めていて積もった心の澱のようなものを、ざっくばらんに書き付けています。

  • コンテンツ精神の露悪趣味と、インスタ化の波

 ADHDであることを公表している著名なアカウントが料理配信らしきもので自らの不手際を見世物にしていて、果たしてこれはそういったロールプレイなのか、自らの病気をインターネットのコンテンツへと落とし込むことに当人はどう思っているのだろうか。そんなことを考えた。Twitterにはいわゆる発達界隈というエリアが存在して、その名の通り発達障害(あるいはそれに類する精神疾患のたぐい)を患ったソーシャルマイノリティが、発達障害であるがゆえに代替的に秀でた部分をインターネットでコンテンツとして広く発信していく、90年代の露悪趣味を連綿と受け継いだインターネットの澱こそが発達界隈だ。以前、vtuberのDeep web undergroundが運営スタッフと揉めた様子を配信したことで反響を呼んたが、その一部始終(現在は一部アーカイブ削除済み)を見るに、かのスタッフらは確実に発達界隈側のそれであり、現にゲストとして招致されている面々には、そのものズバリな顔ぶれが並んでいた。そういった人間が運営していたことは先刻承知のことで、むしろそれを理解しないままにコンテンツに参加していた視聴者が思いのほか、というよりは大多数だったことにひどく驚いた。話を戻すが、DWUというコンテンツはそういったインターネットの澱がvtuberという形を取っただけのとのに他ならず、むしろ声優には一般的な倫理観を持つ女性を配置することで、vtuber市場におけるティーンエイジとの調和を図っているものなのだとばかり思っていた。ところがこの声優がことのほかまともだったせいで、あのようなコンテンツを輩出するスタッフには持ちうるはずのない社会性が希求され、内輪揉めが勃発。DWUというキャラクターはインターネットの澱の蛇口としての機能を停止させ、ガワと声の可愛いプロ意識高めのアマチュア声優のみが残った。ひどく驚いた、というのはこの顛末のことを指しており、この騒動が繰り広げられるにあたって、殆どの視聴者はスタッフの排除を望み、DWUからの個性の剥奪を敢行せんとした。それは音痴になった田中ヒメと鈴木ヒナのようなものであり、また、トークが流暢で自由闊達なものになったバーチャルのじゃロリ狐娘youtuberおじさんのようなものなのである。vtuberとは基本的に忖度やヨイショを糧として成り立っている文化だ。冷笑主義や減点方式の横行した現代のインターネットにおいて、アマチュア発信であるからこその妙な生暖かさが溢れている。雑談も、企画も、スマブラも、麻雀も、いずれも達者である必要性などなく、どこかのフックが引っかかってさえいれば、あとは視聴者が生暖かい目で見てくれる。そういうある種牧歌的な空気を決して嫌っているのではなく、むしろ若干の心地良さを覚えていたからこそ自分はvtuberに一時期傾倒していたわけだが、その生ぬるさにいつしか退屈してしまったのもまた事実だ。そんな経緯を経て、自分は刺激的なコンテンツを断続的に輩出してくれるDWUただ一人を残してvtuberコンテンツからは袂を分かっていたわけだが、その最後の一人さえもが生ぬるさの波に攫われたのだ。かつてはインターネットで大手を奮っていたアングラ礼賛主義も、こうしていたいけな女子が声を上げ、社会性のない人間とはこれ以上活動していけないと声高に訴えられたとなれば、即時に敗北してしまう。これをネット全体のインスタ化の潮流であると称していたツイートには、頷けるものがあった。暗いものより、明るいものを。不幸より幸福を、という姿勢が、今現在求められているものなのかもしれない。

 

 アングラといえば、古くから継承されているアイロニカルなレッテルの話もしたい。80年代の流行語として世を席巻した「ビョーキ」は、時を経て「メンヘラ」としての地位を確立しているのではないだろうか。自らを貶めつつもそこにかけがえのないものを感じる美意識は90年代、ノストラダムスの終末思想により加速し、サブカルチャーやインターネット領域を通じて現代まで継承されているのではないだろうか。

 この部分は完全に放言だ。それらしく並び立てただけの放言だ。これらの文章はプロットもまとまりもなく、意味が通っていない。言葉に責任を持ちたい。いや、責任ではなく自信かもしれない。わからない。

 

  • 麻雀をやり始めた

 元々ある程度の基礎知識はあったんですけど、この度「じゃんたま」の流行にあやかる形で麻雀を始めることにしました。そうしてしばらくプレイしていると、これはある程度運に左右される中で大局的視点をしっかりと持ちながら、総合成績を徐々に上げていくコンテンツなんだなと理解して、一局ごとに一喜一憂してしまう自分にはてんで向いていないなと辛くなりました。特に顔もうかがい知れない画面の向こう側のオタクとする三麻はどうしようもなく苦痛であり、ウメハラが格ゲーと麻雀を比較して「格ゲーが麻雀ほど運ゲーじゃなくてよかった」と語っていたのも頷けます。

 

・よだれもの、ふんぱんもの

 ふと思ったんですけど、無機物に対して使われる「よだれもの」って表現はちゃめちゃにキモくないですか? 飯以外によだれを垂らすなよ。猿轡つけてんのか。翻って、噴飯ものはそこまで嫌じゃありません。なぜなら、飯が既に口の中に詰め込まれているので。

 

 数日にわたって思い付いたことを並べていくと、逆三角形のテキスト配分になっちゃいました。華のないビスケット・オリバはもう見たくありません。