吉岡里帆のUR LIFESTYLE COLLEGE

 どん兵衛のCMで、星野源と共演していた吉岡里帆を見て、あまりの可愛さにビビった。タレントにそこまで関心のない自分がビビったのだから、世間一般のテレビユーザーはきっと失禁すらしていると思う。それほどに可愛い。

 

 そんな抜群に可愛い吉岡里帆がパーソナリティを務めるラジオ番組、UR LIFESTYLE COLLEGE。たまたま流れてきたものを軽く聴き流した程度なので、その仔細はうかがい知れないが、タイトルからしQOLの向上に努める、「ていねいな暮らし」的なコンセプトなんだろう。実際にそんなワードも流れていたように思う。コーヒーをミルからこなすことや、紅茶を茶葉から入れるそのこだわり感を「ていねい」というパッケージに包み込むそのやり口は、どこか自己陶酔めいたものを感じないではないが、案外嫌いではない。現にそう暮らすことに多少の憧れを持っており、余裕のある時には実行するようにしている。

 

 かれこれ自分も、ていねいな暮らしを標榜し、その上で10年続けたTwitterと袂を分かった。そしてそれから三か月程度が経ち、たった今この時、5年ほど続けていたFGOのアプリを削除するに至った。総課金額はおおむね55~60万程度。相当にやり込んでいた自負があり、課金の額面とコンテンツにおける練度になんら乖離のない、要するに金をかけた上でそれに恥じないやり込みを見せていたアカウントを5年間運営していたのだが、この度消去するに至った。

 

 理由は主に二つ。一つは、一度壊れてしまった金銭感覚とはなんとか距離を置いていたものの、ふと気を抜けばまた元の木阿弥になってしまいそうな危うさが、そこには存在していたこと。もう一つは、アプリゲーを継続的に続けてきて得たものと失ったものを考慮した際に、あまりにも損失の割合が勝ちすぎていたこと。

 

 自分はあくまで流行りもののコミュニケーションツールだと割り切った上で、FGOをプレイしていた。ゲームのクオリティを求めるのならば家庭用ゲームを、フィクションの没入感を求めるのなら映画あるいは読書をと心に決めているからだ。これは所要時間や必要経費などのコスパも加味した上での自分なりの結論であって、他人にまで強いる気はないが、少なくとも自分個人がアプリゲーを低俗なものとして見下しているという事実は確かに存在している。

 

 自分はパズドラもモンストも、一度も触ったことがない。それは上に書いたような生理的な嫌悪感、侮蔑的な感情に由来していて、では何故FGOはこうも続いたのかといえば、これらコミュニケーションツールとしてのアプリゲーの側面のほか、ある程度のテキストのクオリティも、ある時期から担保され始めたためだ。故に若干のフィクションとしての楽しみが生まれ、そこに元来の意志の弱さが加わり、射幸心に突き動かされるがまま、数十万円をドブに溶かすに至った。

 

 この手の話題でよく耳にするコンコルド効果。まさしくその通りであり、そしてなにも、そんな面倒な専門用語を使わずとも、こういうギャンブルにおいて「今更引き返せない」なんていうのはもはや常套句であり、この用語の台頭には若干のしゃらくささを感じる。

 

 とにもかくにも、TwitterFGO。自分の中で今更引き返せなかったものを二つ、立て続けに生活から排除した。だからといってこれが「ていねいな暮らし」に直結するとは思わないが、少なくとも少しは体裁がまともになったんじゃないだろうか。

 

 無論、葛藤がなかったでもないが、最後の決断は意外とあっさりしたものだった。やはり水面下で、納得できていない自分は確かに存在したのだろう。

 

 いい大人が、こんなお金の使い方をしていてはいけない。アプリゲーの課金に対してそう声高に訴えた小池一夫は当時、それはもう散々に叩かれ、エンタメシーンの金字塔たる御大にあのようなセリフを吐いてほしくはなかったとの意見も散見したが、結局のところそんな小難しい話ではなく、アコギな商売にみすみす引っかかんなよ情弱、くらいのニュアンスで受け取ればいいんじゃないだろうか。無論、そんな意味で言っているわけはないと思うが。

 

 同じ10万円を使うにあたって、ソシャゲの課金でしか得られない要素なんて何もない。メインテーマたる自己顕示欲の発露・射幸心の充足でさえ、他の用途に費やした方が効率的に満たせるだろう。

 

 今なら、胸を張って前を向ける気がする。

 

 吉岡里帆との出会いが自分を変えた。

 

 これからはQOL向上のため、一日三食どん兵衛を食べようと思う。

 

 

 ――――これは余談なんですが、前述した番組の提供元、URといえば、こないだ寝取られた元カノと住んでたとこなんですよね。そのせいでQOLは底辺まで落ちました、クソが。

NTR後の心情の変化

 アダルトチルドレンだという自認のもと、自責と他責を行ったり来たりして生きてきたんですが、事ここに至ってそのムーブメントに限界が訪れたように思います。そもそもにおいて自分が、自らの至らないところを人のせいにするのは、そうすることで幾分か心の荷が下り、気持ちが楽になるからにほかならず、一種のライフハックとして行っていたわけなんですが。こういう心の弱さを埋めてくれる彼女をカスのウェイに寝取られた結果、そんなささやかなライフハックさえ行えなくなってしまいました。ほんの少し残っていた自己愛や自尊心のようなものが粉微塵に砕けてしまったことで、誰かのせいにしようにも、カス過ぎる自らの存在が責任転嫁という行為の必要アビリティポイントを供給できず、自責の傾向が強くなりました。

 

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針鼠のインナーカラーは桃色

 秋田旅行のレポートは一旦お休みしまして、今から載せるのは夜を明かしてからの午前9時半に書かれた眠気混じりの雑記です。この頃は精神衛生も比較的良好で、希死念慮はほとんど含まれていません。ただ、茫洋たるインターネットを眺めていて積もった心の澱のようなものを、ざっくばらんに書き付けています。

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秋田旅行レポ②

 旅先には決まって小説を持っていくことにしている。だからといって目を通すというわけではないんだけれど、かつて一度だけ訪れたアメリカで携帯が触れなかったものだから、持ち合わせていた上遠野浩平の小説に余暇をつぶしてもらったのをよく覚えている。なお、ブギーポップではない。読んだこともない。ウエダハジメがカバーイラストを手掛ける講談社辺りのノベルスだったが、あまりにもつまらなすぎて、内容をほとんど忘れてしまった。以来上遠野浩平は敬遠している。

 

 さて、今回持ってきたのは早坂吝の「〇〇〇〇〇〇〇〇殺人事件」。またぞろ講談社。井上真偽辺りから時たまミステリーにも目を通すようになったので、その周辺の一冊として手に取ったのを覚えている。ミステリーは元来、読むにあたって読者自らが推理する積極的な姿勢を求められるが、自分はこのセオリーがどうにも肌に馴染まず、ただ作者から空想を提示され続けるあの怠惰な時間が好きだ。解釈の余地を残さず、二次創作による不純物の介在をよしとせず、作者の言葉それのみでみちみちと詰まった作品にこそ興奮する。(ただしこの傾向はストーリーテリングにおいてより強く意識され、昨今のキャラ消費的文脈の二次創作・イラスト文化にはそこまで頓着がなく、十分に楽しんでいる。痛スリとかバリバリ使ってたので……)

 

 その点で言えば、「うみねこのなく頃に」は本当に気持ちのいい空想体験だった。作品自らがタイムリープ構造によるストーリーテリングの再演を幾度となく重ね、その上でメタフィクション構造による多角的な解釈の提示を絶えず読者に叩き付ける様は、自分の狭量なフィクション観などものともしない確固たる強度を持っていた。あの作品に限っては、二次創作に寛容になれる。その読者の想像行為すらも巻き込んだ物語構造が、埒外の解釈すらも内包してしまえるほど強靭だからだ。

 

 

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秋田旅行レポ①

 今日から軽く旅行に行ってくるので、伊丹空港へとやってきたんだけれど、如何せん余裕を見すぎてしまい、2時間ほど待ちぼうけることになった。以前訪れた時に飲食店が多いなとの印象はあったので、今回はあらかじめ腹を空かせておいた。ワイナリーやイタリアンにも興味をそそられるが、単身で、かつ平日の昼間には似つかわしくないので、なんとなく気分にそぐうとんかつを食べることにした。3F、レストランコーナーの「かつくら」。何だかどこかで見たような気もすると思っていたら、そういえば二年ほど前に京都駅で同じ店に入ったことがある。あの時連れ添っていた友人とは、昨日ギルティギアの対戦で火花を散らしたばかりだ。ミリアの中段が見えずに散々負け越した。話を戻すが、ともかく以前入ったことがある。そのことにピンと来たのは店構えやメニューを見た時ではなく、入るなり出てきた茶を一口飲んでからのことだ。これが驚いたことにめちゃくちゃ不味い。いや、不味いというか、タバコの味しかしない。麦茶の煮出した渋味はどことなくタバコのような味がするとかねてから感じてはいたが、これはもはやタバコそのものだ。タバコ茶だ。以前来店した時はついつい灰皿と茶器をまとめて洗ったのかと訝しんだものだが、立て続けにこの味を出されたとなると、これが正道なのだろう。京。茶の本場。コーヒー、紅茶、リカー類に強く、飲料関係はそれなりに層の厚い自負があったのだが、自国の文化には疎かったようだ。こんな茶があるのか。そんな驚きとともに、いたって普通においしいロースカツを頂いて、今は軽い口直しにと丸福珈琲で涼みながら、このブログを書いている。丸福のアイス珈琲は本当に旨い。全コーヒーチェーンの頂点に君臨している。値段に対して量が若干寂しくはあるが、そもそも胃がコーヒーに対して拒絶反応を示している体なので、これくらいでちょうどいいのかもしれない。本当に、本当においしいのだけれど、どうせこの後も吐き気を催すんだろうなという憂鬱感は拭えない。それでも飲みたかった、丸福のアイス珈琲を。思えば、いつからコーヒーを好きになったんだろうか。切っ掛けは紛れもなく高校一年生の時分、学食にドトールの豆を使ったコーヒー(1杯100円)が登場してからというもの、舌が狂ってしまった。誇張でなく、三年間毎日コーヒーを飲み続けていた。自分のほかにティーンエイジからの支持を獲得できなかった学食コーヒーは、気付けばメニューから消え失せ、カウンターで名指しで頼めば出てくる裏メニューという扱いになっていた。新規のユーザーは見込めず、その黎明期を知る自分と、幾名かの教員の他には頼む人がいなくなっていた。いつしか教員ともささやかながら仲間意識が生まれ、コーヒーというアイコンを得た自分はそれによって学内からの認知を受けた。「あ、コーヒーの子だ」と何度か言われたのを覚えている。それほどのカフェインジャンキーだった自分が、今ではたった1杯のアイス珈琲で胃をダメにし、吐き気を催し、レバミピドの世話になる。こんなことでいいのかと思うが、そういう身体になってしまった以上はどうしようもない。ほら、吐き気がやってきた。早いとこ保安検査を通過して、胃薬を飲もう。そうしよう。


 教員で思い出したが、自分は高校生の頃現代文を得意科目としていて、かつ現代文のみを得意としていて、そういった学生の常として、将来はろくな奴に育たない。自分もこのジンクスから漏れることなく、なんともうだつの上がらない、口だけほんの少し達者なぼんくらへと成長を遂げたのだが、そういう人間の安息の地としてのインターネットにも、先日限界を感じてしまった。自らをコンテンツとして切り売りするマッチポンプトゥルーマン・ショーには、ゴールがない。だからといってその壇上から下りたとて、どこにゴールがあるのかは分からないのだけれど。


 それはそうとして、この頃スイカバーに熱中している。昨日も3本食べてしまったせいで、空港のトイレで腹を下す羽目になる。
 お腹が痛いので、ここでいったん区切ります。

 2泊3日の秋田旅行、それなりに書きたいことができたので、大体3~4記事に分割してアップロードしていくつもりです。

お昼時の放送

 学生の時分、放送委員の手を介してお昼休みの電波ジャックに乗り出したオタクは少なくないと思う。それは小学生高学年の頃に実際に放送委員を務めていた自分の目から見ても、確かなことだった。

 

 あの年頃でメディアの領域に行きつくような人間は、日陰で反吐にまみれているのがとても似合うタイプの人種だからだ。

 

 ただでさえ家に籠りがちな陰気人間が、小学校というコミュニティにおいてさえ放送室という隠れ蓑を得てしまっては、手の付けようがない。

 

 さて、かくいう自分も中学生になってからというもの、覚えたてのボーカロイド文化にすっかり浮かれており、青少年の耳朶に怪電波を叩きつけることに快感を感じていた。加えて性欲も爆発して抑えが利かなくなってきた頃でもあり、当時はキモさが極まっていた。

 

 ともかくパーソナリティからリスナーへ。レコメンドする側からリクエストする側へと、転身を果たした自分は、校内の電波を間借りして様々なオタクメロディをかき鳴らした。

 

 4限終わりのチャイムが鳴ると弁当も購買も尻目に、いの一番に駆け出す奴らがいた。それがオタクだ。

 

 各々自薦のアルバムを小脇に抱え、あるものは初音ミク、あるものはKOTOKO、またあるものはふぃぎゅ@メイトを放送委員に鼻息荒く押し付け、自分の曲は今か今かと心待ちにしながら教室で余暇を過ごす。それがいざ流れようものなら、ひそやかにガッツポーズを決め、コミュニティの人間にこれ見よがしな視線を送りつつ、ぬひひと潜んだ笑いを浮かべ合う。

 

「ちょwwwおまwww学校で流すなしwww」

 

「やばwww」

 

「○○たんhshs」

 

 みたいなのが、ウキウキ、キャッキャっとしている教室で、無論軋轢は生まれる。

 

 ヤンキー、DQNはそのキンキン声の楽曲群に眉を顰め、それをかき消すかのように声を荒げ、オタクを糾弾する。

 

 放送というメディアを手中に収めたオタクと、暴力というパワーを手にしたヤンキーの衝突は、しかし大した波紋も生まず、ただ教室の脇にあるスピーカーの電源が落とされることで幕を下ろす。

 

 彼らが腕力を振るうまでもなく、ツマミ一つ回せるピンチ力さえあれば我々は容易く敗北してしまうのだ。幼子にさえ勝てないメディアを我々は崇拝していた。

 

  あれから十年。

 

 こうして振り返ってみて、今。

 

 深夜ラジオという日陰者のコンテンツに、行き着くべきして行き着いたのだと得心した。

 

 あの時分に手を付けていたならば、タイムリーに伊集院光に心酔していたのかもしれない。そう考えると怖気立つものがある。

 

 童貞賛美のルサンチマンになんて、死んでもなりたくない。性交は確かな社会的ステータスであり、価値があり、大前提として気持ちいい。

 

 向上心のないものが馬鹿だとは思わないけれど、性欲をひた向きに希求することすらできなくなった生には恐怖を感じる。

 

 あの頃。性器をマンションの屋上で露出することに快感と誇らしささえ感じていた中学二年生の自分は、そういった諦観とは無縁で、とにかく馬鹿なくらい素直だった。近所の老人に現場を目撃されていたことを加味しても、だ。

 

 CDや自己顕示欲だけでなく、性器までもがまろび出ていた中学二年生の夏。

 

 今では深夜ラジオを日常的に聴き続け、女は寝取られ、いつまで経ってもうだつが上がらないような昼行燈になってしまったが、事ここに至って露出癖と童貞賛美の精神からきちんと距離を置けていることに何よりの安堵を覚える。