覚え書き

 この文章は葛飾ラプソディを聴きながら書いている。夏コミ終わりのタイムラインで、ちまたで有名な両津勘吉フェラチオ本が流れてきた。品性のなさとインモラルは、何よりの笑いの源。政治的公平性のもとに淘汰されていくそれらを、むざむざと眺めつつ、往年の名作に黒人女性がキャスティングされていくのを適度な無関心と納得のもとに受容していく。それはそれとして、連載晩期のこち亀に見られた、若者文化と全力で向き合う秋本治先生の熱量にはただただ感心しきりだった。あそこにはインターネットが凝縮されていた。いや、言うほどされてはいない。インターネットという言葉を「心地のよい空間」として使いたいだけの自分のエゴだと思う。こういうクセは良くない。じゃあ、最近のインターネットと比較して相対的に評価してみる。この頃、どこを見ても誰かしらが憤っていて、義憤に駆られていて、とても熱心にツイートをしている。怖い?怖くない。じゃあ何?気持ち悪い。みんな、言葉をうまくはめていく。疑問を抱かない。他人のツイートを見る。うまくはまってないな!疑問を抱く。ダブルスタンダード、程度問題、ポジショントークにまみれた禅問答に心血を注ぐ彼らは気持ちが悪い。ではこち亀はどうか?根無し草で人情家、侮れない博識さを持つ両津勘吉が、とりあえずいろいろ語ってくれる。両津勘吉先生による文化論の講義を、我々は看板漫画の箸休めに拝聴していた。両さんが世の中の問題に口を出す。それは世相を斬るように提出され、反論、対立は巻き起こらない。みんなは両さんの話に耳を傾けて、どうせまたぞろ金に結び付けるんだろ、と悪巧みをカンパするなり。早い話が騒がしくない。葛飾亀有の情景だけを見ていればよい。空想作品はノイズが少ない。言葉を扱う人間と、言葉を扱うキャラクターは自分の中ではある種等価値で、キャラクターの方がその方法は洗練されている。彼らは我々ほどやかましくなく、面倒でもない。作者という全体集合から生まれた集合Aに過ぎないが、それでよい。インターネットは騒がしい。