チェーホフの銃

 チェーホフの銃を例に挙げ、近年のフィクションにおけるポリティカルコレクトネスを解明しようとするツイートを見た。チェーホフの銃とは作中における何気ないアイテムが物語の佳境に至ってキーとしての性質を獲得することを示しており、逆説的に「作品に不要な要素は描写するべからず」との主張を読み取ることが出来るというものだ。これについてはいろいろ思うところがあって、それは主に「果たして本当にそうなのか?」という素直な疑問だ。勿論、フィクションにおいて蛇足は唾棄すべきものであって、それを承認しているというわけではないものの、過度に洗練された物語構造は時として歪に映るのではないかと思う。たとえば世間一般で高い評価を受けている『STEINS;GATE』は、作中の一挙手一投足や言動に、後々怒濤の勢いで重要性が発生していくという構成を取ったまさにチェーホフの銃の原理原則に則った作品と言える。しかしこの作品に対して自分はどうにも上手く没頭できなかった。それというのも、何もかもに意味が生じすぎていて、意図的で、円滑なその世界構造になんだか白けてしまった。セカイ系が少年少女のモラトリアムと世界の命運を天秤にかけるにあたって、その中間に存在する社会状況は省略される。小状況と大状況を抽象により接続する荒技に、自分はそこまで抵抗を感じない。ところが本作は、少人数のメインキャストが確かな社会を形成し、世界の命運を左右し、そのほとんどには具体的な意義が存在した。チェーホフの銃を突き詰めた事による彼らの完成された社会は作品社会の補集合を排斥し、その精巧緻密な完成度は、研ぎ澄まされているがゆえに気持ち悪い。無駄がなさすぎる。ダルは鈴羽を娘に持っていたり、Mr.ブラウンが桐生萌郁のブレインであったり、とにもかくにも小規模な彼らの社会のうちへと、何もかもが収束していく様は、快感であると同時にどこか不気味であり、個人的には「電気屋のおっさんまで詰め込む必要あったのか?」という気持ちになる。と、ここまで書いたところで一つ得心がいった。そもそもにおいてタイムリープ構造が選択行為のリピートによる物語の最適化に他ならない以上、チェーホフの銃が過剰に働くのは致し方ないことであり、これはひとえに不毛な思考の一人歩きでしかないのでは? ……………………。……桃井はるこver.の『ロマンスの神様』でも聴いて、寝ます。